第8週 オーストラリアの太平洋戦争



1. オーストラリアの防衛:北からの脅威
1-1. 日本の地域大国化 → 「日本の脅威
1894-95 日清戦争(朝鮮半島の主導権をめぐる日清間の対立)

1902 日英同盟締結=日英提携による露の南下阻止 → 反ロ感情からくる親日感情
1904-05 日露戦争 (満州をめぐる日露の対立)
        → 日本の領土の拡大
        → アジアの大国化 → 対日脅威論
1905 ヨーロッパでドイツ海軍に対抗するためイギリスは極東海域に配備した戦艦を北海へ移動 → 対日脅威論
1910 日本の韓国併合



1-2. 第一次大戦後の日豪関係
1914-1919 第一次世界大戦、日独戦
     青島、赤道以北のドイツ領南洋諸島を占領 → 対日脅威論

1919 パリ講和会議

ベルサイユ講和条約:
 赤道以北のドイツ領は日本が管理することになり、
「日本の脅威」が強く認識されるようになる。
  オーストラリアの本土防衛をめぐって、英国との利益の対立がみられるようになった。
 人種平等条項をめぐる対立=日本が人種差別撤廃条項を提案、オーストラリアは反対

1921-22 ワシントン会議
      アジア太平洋における国際秩序の形成
      日英同盟の破棄 → 対日脅威論
1931 満州事変→日本孤立化、英米との対立激化
  ヨーロッパ主要諸国のブロック主義
1941 真珠湾攻撃、英米に1日遅れて
対日宣戦布告





2. 太平洋戦争とオーストラリア
2-1. 対日宣戦布告
英帝国軍として第二次世界大戦に参戦
1939.9 英国の対独宣戦布告とともに対独戦参戦
1941.12 対日宣戦布告=
「日本の脅威」の現実化
  55万人参戦(3,4376人死亡)
  対日戦では27000人死亡(うち、17,500人戦闘で、8,031人は日本軍捕虜として死亡)
  22,000人が日本軍捕虜となったが、その1/3以上が死亡している。



2-2. シンガポール陥落:英軍依存からの決別 → 対米依存へ
シンガポールの陥落は、英国軍がオーストラリアの防衛に寄与できないことを証明し、オーストラリア国家存亡の危機に瀕することになった。 オーストラリアは、ウェストミンスター憲章(1931年公布)を批准し、米と相互援助協定を結んで、対米依存を強めていった。また、マッカーサー司令官のもと、南太平洋方面軍司令部設置されて、オーストラリアは、反日反攻の拠点となった。

1941.12  マレー沖海戦英東洋艦隊の中核、戦艦「プリンス・オブ・ウェールズ」、巡洋戦艦「レパルス」撃沈
1942.1 日本軍ニューブリテン島ラバウル占領
1942.2.15 
シンガポール陥落:3,095人のオーストラリア兵死傷(うち1,789死亡)、15,384人が捕虜となる
1942.3 日本軍ニューギニア東部ラエ、サラモア占領
1942.3 マッカーサー司令官のもと、南太平洋方面軍司令部設置
  オーストラリア軍はマッカーサー司令官の管轄下にはいる。 脱出後ダーウィンに到着して 'I shall return' 演説

1942.3-1943.5 日本軍ダーウィンおよびオーストラリア北部空襲

ダーウィン空襲オーストラリアは準備不足 住民は南の方へ避難 約2300人の住人が残る
1942.2.19 2回の空襲。第1回目の空襲:空母発艦の日本軍機188機、第2回目の空襲:アンボンおよびセレベス島基地発信の54機
      2回の空襲で市民と米・豪兵を含め死亡約300名、負傷350名。


1942年以降、1年半の間に64回

   日本海軍はオーストラリア本土攻略占領案、陸軍が猛反対 
       → ニューカレドニア(仏)、フィジー(英)、サモア(米)、ポートモレスビー(豪)攻略案

1942.5 
珊瑚海海戦 (空母対空母の戦い)日本軍の目的であったポートモレスビーの攻略は果たせず
1942.6 ミッドウェー海戦
     特殊潜航艇3隻がシドニー湾に侵入。豪海軍艦船Kutabal号を攻撃、乗り組員21人か死亡
     日本軍特殊潜航艇3隻も沈み、そのうち2隻は引き上げられて豪海軍による海軍葬が行われ、遺骨は日本に帰された。


地図参照



     



2-3. 東部ニューギニア戦線 地図参照
1942.12-44.8 
ニューギニアの死闘
'43.1.2 ブナの守備隊全滅。その後も各地で消耗戦を続け、日本軍の陸上部隊だけで10万人以上死亡。

1943.2 - 12 ガダルカナルの死闘、米軍上陸、日本軍撤退
2万人以上死亡。極度の食糧難で、マラリアなどの風土病との戦いが厳しく、「餓島」と呼ばれた。
1942.8-11 ソロモン海戦
ガダルカナル島をめぐる日本軍対連合軍の攻防 連合軍南太平洋軍ニミッツ司令官 → 中部太平洋侵攻作戦
  =日本軍は飛行場建設してラバウルの防備にあたる
  →連合軍の攻撃、占領 → 日本軍による総攻撃、全滅、撤退



日本軍のポートモレスビー(オーストラリア領:連合軍の日本軍攻撃の要地)攻略作戦 
  =ラバウル(ニューブリテン島)およびサラモア、ラエ(ニューギニア島)の防備
  =トラック諸島(日本連合艦隊基地)の防備
豪・米軍(マッカーサー連合軍南西太平洋軍司令官)によるポートモレスビー防備、日本軍の追撃
               → ニューギニア西進、フィリピン侵攻作戦

 1942.5 珊瑚礁海戦 → ポートモレスビーの攻略は果たせず
 1942.8.26 日本軍ミルン湾からの上陸作戦 → 失敗

スタンレーオーエン山脈を越えてのポートモレスビー攻略:
ココダ山道進軍
  ポートモレスビー−ブナ(200キロメートル) 途中2000mを超えるスタンレー山脈とジャングル
'42.8.19 ポートモレズビー攻略のため日本軍ブナ上陸、先遣隊イスラバ守備隊(豪軍)と戦闘
  8.23  日本軍南海支隊ココダに進出 
  8.26 イスラバ守備隊(豪軍)の背後に偶然入り込む、豪軍撤退
    豪軍はあっさり抵抗をやめ、大量の弾薬と食糧を残して撤退、日本軍は久しぶりに十分な食事(『図説太平洋戦争』)
     豪軍との戦い、マラリア、山ヒル、食糧不足と戦いながら日本軍は進軍
    'The fighting withdrawal from Kokoda back to Ioribaiwa and Imita Ridge took place under the most difficult conditionns...'、
      日側犠牲:1000人 豪側犠牲600人死亡、1015人負傷
  9月半ば 日本軍イオリバイオ(ポートモレスビー近く)到着、しかし撤退命令により撤退
       マッカーサー指揮の下、豪軍による日本軍追撃作戦、米軍はブナに先回り



連合軍マッカーサーによる東部ニューギニア奪回作戦
'42.11.16 ブナ南オロ湾に米軍(1000名)上陸
'42.12中旬 日本軍バサブア全滅
'43.1.2 ブナの日本軍守備隊全滅
 ポートモレスビー攻略のための南海支隊は5500名戦死(ほぼ全員戦死)
'43.1 -  日本軍サラモア、ラエ撤収、ファンシハーヘン撤退、ラバウルの日本軍孤立化
 東部ニューギニア戦線では、約13万人の日本兵が死亡

1943年ごろからすでに対日講和問題が浮上しはじめ、オーストラリアは対日講和で発言権を確保するため反日反攻戦で重要な役割を演ずることを望んだが、マッカーサーはそれを無視、オーストラリア軍をニューギニア島に残る日本軍の掃討作戦に利用した。




3. 日本軍捕虜収容所


22,000人が日本軍捕虜となり、その1/3以上が死亡した。

例えば、捕虜の生存率は以下のとおり。

捕虜数
死亡者数
生存率

アンボン収容所

豪軍 528人

405人

23%

ザンダカン収容所

英軍 700人

豪軍 1800人

2494人

0.24%。生存したのは脱走した6名のみ。

泰緬鉄道

連合軍 65,000人

豪軍  9500人

12,000人

2646人

80%

72%



したがって、BC級戦犯裁判(通常の戦争犯罪:各国で軍事法廷で裁判が行われた)では、捕虜虐待に焦点があてられた。オーストラリアは294件の裁判を行い、949人が有罪判決を受け、153人が死刑判決を受けた。


テレビドラマ 'Changi'  オーストラリアABC放送 
2001年放送、6回シリーズ、ABC/UK Televisionからビデオとしてリリースされている。
チャンギ捕虜収容所で仲間となった6人のオーストラリア兵の姿を、それぞれの収容所での体験、今日でも癒えない傷跡、戦前の思い出を織り交ぜて描いている。収容所での苛酷な生活を、陽気に軽口をたたきながら、機知と勇気とメイトシップで苦難を乗り越える、たくましいオーストラリア兵の姿が描かれており、アンザック精神の太平洋戦争捕虜収容所バージョンのようでもある。したがって、日本軍の残虐さなどはこのシリーズの主題ではないが。そこに描かれる日本軍や日本兵の姿は決して好感の持てるものではない。実際に収容所を体験した元捕虜からは、収容所はもっと苛酷なもので、事実をわい曲しているという批判もある。



4. カウラ捕虜収容所(ニューサウスウェールズ州中部)
第二次大戦中、約4000人の捕虜が収容され、うち日本兵は1100人以上。
1944年8月5日未明、多数の日本人兵捕虜が集団脱走を図り、234人の死者と108人の重傷者を出した。378人が収容所から脱走し、うち334人は事件後9日以内に捕えられた。
現在は、カウラに日本人戦没者霊園があり、日本庭園、文化センターが建設されている。

中野不二男『カウラの突撃ラッパ』(文芸春秋、1984)は、日本ノンフィクション賞を受賞した作品です。

テレビドラマ「あの日、僕らの命はトイレットペーパーよりも軽かった:カウラ捕虜収容所からの大脱走」情報センター配架済
 



日系人収容所
最高時で4,301人 (オーストラリア周辺の英・蘭・仏領地域で抑留された、台湾籍を含む日本人の3,160人も含まれる)
            → ほとんどは本国へ強制送還 戦後オーストラリアでの在留許可141人
 独身男性:SA州内陸部 ラブデー収容所
 家族、女性:Vic州 タツラ収容所
 真珠貝産業関係者:NSW州 ヘイ収容所



5. 戦犯裁判
極東国際軍事裁判(東京裁判):A級戦犯(重大戦争犯罪人)
連合国司令官マッカーサーは、9ヶ国(米、英、ソ連、中華民国、仏、加、蘭、豪、NZ)から指名された者を極東国際軍事裁判所の裁判官に任命した。裁判長はオーストラリアのウェッブ判事。後にインド、フィリピンの裁判官も任命された。
28人が起訴され、7人が絞首刑、16人が無期禁固刑、2人が有期禁固刑、2人が公判中に病死、1人は精神障害のため免訴された。天皇、および皇族は訴追されず。

BC級戦犯裁判(通常の戦争犯罪:各国で軍事法廷での裁判)

対日交戦国別の軍事裁判

国名
被告者総数
うち死刑

アメリカ

1453人

143人

イギリス

978人

223人

オーストラリア

949人

153人

オランダ

1038人

236人

中国

883人

149人

フランス

230人

63人

フィリピン

169人

17人

(出所:『中日新聞』1994年12月4日)

オーストラリアは294件の裁判を行い、949人が有罪判決を受け、153人が死刑判決を受けた。豪兵捕虜の虐待が厳しく追及された。アンボンオーストラリア裁判では、14名が死刑判決をうけた。法廷は途中でモロタイに移った。