I 開拓の歴史
第3週の講義資料を参照のこと
II 侵略の歴史=開拓の歴史の影
1. オーストラリアの先住民族(indigenous peoples)とは
人口は約45万人、総人口の2%、彼らの7割以上は都市に住む。
アボリジニは約5万年前からオーストラリア大陸に住むといわれる。白人との接触以前には30万人(100万人との説もある)が、600以上の地域諸集団からなっていた。現在も存続している言語は約200、話者が1000人を超える言語はわずか12。
言語・民族分類上は、
◆タスマニア人
◆オーストラリア本土の先住諸民族
◆ティウィ人(北オーストラリアのバサースト島とメルヴィル島)
◆トレス海峡諸島民(27000人のうち2万人は本土に居住)
に分類される。オーストラリアの文書では、「アボリジニおよびトレス海峡諸島民
(Aboriginal and Torres Strait Islander
Peoples)」と表記するのが通例である。現在ではオーストラリア先住諸民族(indigenous
peoples of
Australia)が頻繁に用いられる。アボリジニの人達の自称は地域によって異なり、Koori,
Wamba, Nyunga, Mari
などの語が用いられれ、「人間」を意味するものが多い。アイヌの人達がウタリ(同胞)と呼ぶのに近い。因みにアイヌは「人間」という意味。アイヌの中のひときわアイヌらしい立派な人物を「アイヌ・ネノアン・アイヌ(人間らしい人間)」という。
白人入植以前は狩猟・採集民で、30人ほどの小集団をつくる遊動民であった。ただし、「遊動」といっても、あてもなくさまようのではなく、季節によって、あるいは他集団との関係において、計画的に動いてきた。動植物、天候、地形、水資源など生きるうえで必要な知識や技術、判断力はリーダーの資質として必要不可欠で、文字をもたなかったが、伝承形式で世代から世代へと語り継がれてきた。
オーストラリアは様々な地域からの移民から形成されている、多民族・多文化社会となっているが、先住民の人達は、エスニック・マイノリティと分類されることを嫌う。なぜならば、オーストラリアにおけるエスニック・マイノリティは、非英語系移民の集団が中心で、非英語系移民はオーストラリア社会においてマイノリティではあっても、先住民族の土地を「侵略」した人々であることにはかわりはない。したがって、先住民族は、彼らの「先住性」を主張する意味においても、英語系・非英語系にかかわらず、移民してきたオーストラリア人とは一線を画するという立場をとることが多い。
2. オーストラリアの歴史
2-1. オーストラリアの「発見」=侵略の始まり
「テラ・ヌリウス(無主地)」の虚構
(住民は存在するけれど有効な土地所有制度をもたないとする)
17 〜
18世紀 オーストラリアの「発見」、マカサンとアボリジニの交易
1770 キャプテン・クック大英帝国によるオーストラリア領有宣言
1780年代 フランスの南太平洋進出が著しくなる。
英国政府はオーストラリア大陸の植民地化に乗り出す。
1788 入植の開始:フィリップ総督のシドニー湾上陸
悲劇的な異文化接触:敵対、 保護・隔離、 同化・雇用
植民地政府:英国臣民としての「公正な」扱い、友好関係の模索 → 敵対関係
入植者たちの土地の搾取、一方的暴力、病気、女性の略奪
2-2. 白人の入植=土地の収奪、虐殺、アボリジニによる抵抗、アボリジニ社会の崩壊
アボリジニ人口の激減
1788 推定30万人〜100万人
1861 18万人
20世紀前半 6万人
オーストラリアにおける入植期のずれ(地図、写真参照)
1820-30年 牧羊業の発展、自由移民の増加
(土地が無償あるいは定価で提供された)→ 土地の収奪
1829年 全オーストラリアが英国の領有となる
〜 1850年代 NSW, Vic, Tas, SA, WA, Qld自治植民地成立
1901 オーストラリア連邦成立
タスマニアの場合:虐殺、「絶滅」
人口の激減
1788 - 1861 4500人 → 18人
1876 「最後のタスマニア人」トルガニーニ死亡、しかし「絶滅」は事実に反している
今日約7000人のタスマニア・アボリジニがいる
1803 イギリス人がタスマニア島に入植、「開拓」、匪賊の跳梁、アボリジニの殺害・強姦 → アボリジニの抵抗
1825 ニューサウスウェールズ植民地から分離してヴァンディーメンズランド植民地となる
1827 植民地政府はアボリジニの隔離に乗り出す、実効なし
1828 アボリジニに対する戒厳令、「生け捕り」のための賞金を出す、実質はほとんど殺害される
1830 「ブラック・ライン」(島の東南端に追い込んで捕獲しようとした計画、失敗におわりほとんどが殺害される)
1831 アボリジニの「保護」計画、フリンダース島のワイバリナ居留区にアボリジニを収容 → 2/3以上が死亡
1847 ワイバリナ居留区の生存者(46名)はオイスター湾居留区に移される
1876 最後の一人(トルガニーニ)の死亡でオイスター湾居留区は閉鎖される
ヴィクトリアの場合
タスマニアと同様に人口の激減
1788 - 1861 1万5000人 → 2384人
1830年代 キリスト教会によるミッション開設:「堕落した人々の教化」
1839 アボリジニ「保護官」任命、ポートフィリップ地区着任
1851 ニューサウスウェールズ植民地からヴィクトリア(ポートフィリップ地区)植民地が分離
ビデオ:地球に乾杯「知られざる内陸探検:オーストラリア縦断3000キロ」より
バークとウィルズの探検:総勢17人 1860.8-61.6
オーストラリア建国の歴史の光と影
未開の大地の探検 vs 精霊の宿る大地への侵略
2-3. 保護・隔離政策=強制移動、差別と抑圧、文化の否定と社会基盤の破壊、アボリジニ社会の崩壊
思想的背景
保護:未開の人々、子供の知能しかもたない人々の救済
「死にゆく人には柔らかい枕を」
隔離:白人社会からの隔離、白人社会への流入を阻止
抵抗を閉じ込める
施策
居住区の設立、教会ミッションの設立
食料、衣類の配給
教育
結婚、就職、移動など生活のすべてにわたって許可を必要とする。
2-4. 同化政策(1930年代後半〜)=差別と抑圧、文化の否定と社会基盤の破壊
思想的背景
白人社会への「同化」による問題の解決
施策
居住区、教会ミッションでの教育
女:メイド、 男:農場労働者
賃金はなく、小麦粉、砂糖、紅茶、衣類の支給
混血児の教育(ただし、高等教育はめざしていない)
親子強制隔離政策:アボリジニ文化の完全な否定、人間性の否定
2-5. 統合政策(1960年代後半)州政府による福祉政策=同化政策の踏襲
ミッションの廃止、行政地域化
1965 仲裁裁判所による最低賃金支払の保証決定
1967 国民投票
先住民族政策決定の権限を連邦政府にも認める(以前は州政府の権限)
アボリジニが国勢調査の対象となる≠市民権の獲得
2-6. 自主決定・自主管理政策(1973〜)=アボリジニの権利回復
アボリジニの権利を保障する法制度の整備
1966 グリンジ・アボリジニによるウェーブヒル牧場からの'walk
off' ダグラグへ 1975 一部の土地をアボリジニに返還
1968 イルカラ訴訟:ゴーブ半島の鉱山開発の停止を求める(1971請求棄却)
土地権回復運動の始まり
アボリジニの権利回復運動の高まり
1972 テント大使館事件
1973 自主決定政策
1975 人種差別禁止法制定
1976 アボリジニ土地権利(北部準州)法制定
土地の返還の始まり
地図へ http://www.ga.gov.au/map/images.jsp
1992 マボ判決(「テラ・ヌリウス」の否定)先住権原の承認
1993 先住権原法制定
1996 ウィック判決(牧場借地における先住権原の承認)
先住権原(native
title)とは:ある民族集団がある土地の先住者であるが故に有している集団的権利(先住権)の根拠
参考文献
保苅実『ラディカル・オーラル・ヒストリー』お茶の水書房、2004年
デボラ・ローズ『生命の大地 アボリジニ文化とエコロジー』平凡社、2003年
小山修三・窪田幸子編『多文化国家の先住民』世界思想社、2002年。
上橋菜穂子『隣のアボリジニ』筑摩書房、2000年。
Broome, Richard. Aboriginal Australians, Allen & Unwin,
Sydney, 1994
小山 修三他編『オーストラリア・アボリジニー狩人と精霊の5万年』産経新聞社、1992年
細川 弘明「先住権のゆくえ」長谷川長夫他編『多文化主義・多言語主義の現在』人文書院、1997年